世良田の東照宮など

朝から家の外回り清掃を始めたが、枝下ろしが残っているので、
これから手がけました。下ろした枝は纏めて置いて、今度は短く
刻まないと始末が悪いので、これまた大変で未だ当分続きそうです。

 午后は買い物を頼まれていたので、これ幸いと今日の作業は修了。
買い物の序でに一寸足を伸ばして、群馬県世良田東照宮と隣の長楽寺
にある大銀杏を観に行きました。

 毎年この時期の土日は結構賑わうのですが、月曜とあって閑散として
いました。又この銀杏は太い電線が何本も横切っているので、撮影には
向かないのかも知れません。

 東照宮はボツボツ年末年始の準備を始めていました。  

   今日の写真は世良田東照宮と長楽寺の銀杏などです。
暇で暇でしょうがないという奇特なお方は、東照宮の由来などご覧下さい。


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世良田の東照宮については以前にも掲載したことがありますので、一部重複しているかも知れません。

世良田の東照宮の由来

             徳川氏発祥の地の由来


徳川家康公の先祖は、新田氏の始祖である義重から新田荘の内、当地「世良田」
他5カ郷を譲り受けた子の義季である。
義季は5カ郷内にある利根川沿いの押切を徳川と改称し、 徳川義季と称した。
承久3年(1221)世良田郷を開発した義季は臨済宗長楽寺を開基し、
世良田の義季とも称された。
寛元4年(1246)頃、亡くなり同寺境内に葬られた。

その後、頼氏・教氏・家時・満義と後継。
次の政義・親季・有親は、南北朝時代に南朝方として活躍したが、9代目の親氏に
至り北朝の猛勢により徳川郷を追われ同志や一族の居所を頼りに出国。
諸国を流浪の後、松平郷に身をよせ郷主在原信重に入婿し、松平親氏と称した。

それから7代を経て家康公は誕生した。
家康公は三河一国を統一した25歳の時、松平姓から 徳川・世良田を開発した
徳川義季にあやかり、徳川に復姓した。

また松平家二代泰親は世良田三河守、同三代信光は世良田二郎三郎、同七代清康は
世良田次郎三郎、家康公第四子忠吉は世良田下野守、尾張家三代綱誠は元服時に世良
田、徳川七代将軍家継は幼名時に世良田鍋松君と先祖の姓である世良田を称していた。 

                   東照宮の創祀

寛永16年(1639)天海大僧正は徳川家康公から御下命されていた長楽寺を臨済宗
から天台宗へ改宗復興。
三代将軍家光公は先祖の遺徳と当地方の守護神として、二代将軍秀忠公造営の日光
東照宮奥社(神廟=多宝塔 ・唐門・拝殿)を移築。
本殿は新築し、東照宮を勧請された。
同21年(1644)10月11日には正遷宮が盛大に斎行され、同年12月には群馬県下の
神社でも高禄の200石の御朱印が寄せられた。以後、大小15回による社殿の修復は
幕府の財政により賄われて来、世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と
俗謡を生んだ。



           長楽寺の歴史

1221年(承久3年)得川義季の開山、臨済宗の僧栄朝を開山として創建されたという。早い時期から官寺として扱われていた。室町時代初期(南北朝時代)には十刹のひとつに列せられた。開基当初は臨済宗であったが、徳川家の祖とされる得川義季が創建したとされることから徳川家の帰依を得、江戸時代江戸幕府に起用された天台宗の僧天海により天台宗に改宗となった。

  以上は群馬県太田市の資料から抜粋しました。

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